首洗池(相模原市緑区)
- 190
mixi記事コピペ──
三増峠古戦場(相模原市緑区根小屋〜愛甲郡愛川町三増)
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000088717053&owner_id=32815602
2014年01月24日 22:43
戦の説明は「八王子城跡2(八王子市)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000086461604&owner_id=32815602
2013年09月11日 01:49
超おまけ――
永禄12(1569)年8月24日、信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、滝山城など北条方拠点を攻撃しつつ、10月1日、北条氏康の小田原城を囲んだ。当時の小田原城は惣構え着工前だが、かつて上杉謙信が10万の兵力をもってして落とせなかった堅城に攻城戦は行わず、小田原城を包囲し3度の挑発を行った。しかし、3代氏康の座す小田原城に動きはなく、信玄はわずか4日(10月5日)で包囲を解き、城下を放火して撤退する。
氏照は甲州道守備で後詰だった。同じく秩父方面守備軍の北条氏邦と併せ2万の軍勢で、要所 三増峠(相模原市緑区根小屋〜愛甲郡愛川町三増。三増古戦場)に着陣していた。また、4代氏政が2万余りを率いて進軍しており、氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃する作戦だった。
10月6日、武田軍と北条軍が対陣する。
甲斐への帰路をたどる武田軍へ有利に戦端を開こうと、氏政本隊は到着していないが氏照・氏邦軍は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようと動き始めた。これを察知した信玄は部隊を3隊に分ける。本体は北条軍の攻撃を正面に受け、他の2部隊は山中に潜み北条軍を横から急襲する作戦をとった。
10月8日、本格的な交戦が始まった。緒戦は氏照・氏邦軍有利に進行する。北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により、左翼の浅利信種(殿)や浦野重秀が討ち死。
そこに、志田峠 (三増峠南西約1km) へ移動していた山県昌景の別働隊が、より高所から奇襲に出る。戦況は一転。後方の津久井城主 相模内藤氏は、武田軍 加藤丹後に抑えられて動けず(現相模原市緑区にあった北条方の支城だが、周囲の土地は小山田領(奥三保(現 裏丹沢))で、俗に敵半地と呼ばれる地域だった)。
浅利信種が戦死した左翼は、軍監 曽根昌世が代わりに指揮をとり、綱成の軍勢を押し戻すことに成功している。
緒戦では苦戦した武田軍の大勝となった。
小田原から追ってきていた氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが、自軍の敗北撤退を聞き進軍停止。
武田軍の進軍が早く、氏政の行軍が遅く、挟撃が実現しなかった。
勝利が確定的となった信玄は、軍勢を反畑(相模原市緑区)まで移動させ、そこで勝ち鬨を挙げた。
これが、戦国最大規模の山岳戦として知られる三増峠合戦――
※浅利信種――甲斐源氏庶流。甲斐武田家譜代家老衆。120騎持ち侍大将。赤備え。信濃侵攻で勇名。浅利氏はここで根絶したと考察されている。
※浦野重秀――手子丸城(大戸城)城主浦野重成弟。浦野氏は大戸氏とも言い、滋野氏庶流。よって真田氏と同族となる。もとは長尾政虎家臣(永禄3(1561)年、長野業正らと共に箕輪衆と記されている)。翌年には武田家に降っている。天正10(1582)年、武田家滅亡後、手子丸城は北条氏邦によって落城、浦野氏は滅亡したとされる。
※曽根昌世――まさよ・まさただ。父は曽根虎長。初名、勝長。信玄奥近習6人衆のち足軽大将。騎馬15騎・足軽30人。
三増峠合戦で浅利信種隊は殿を務めていた。信種討ち死ののちは昌世が部隊の指揮を引継ぎ、撤退を見事に成功させた。
駿河侵攻に際して真田昌幸と共に活躍し、信玄から 「昌世と昌幸は我が両眼だ」と賞賛されている(甲陽軍鑑)。
駿河花沢城攻めでは三枝昌貞(守友)に次いで2番槍。
駿河興国寺城代を任されている。
伊豆韮山城攻めで武功を挙げている。
長篠合戦に参戦。
武田家滅亡後は徳川家に仕えた(かなり早い時期に家康へ内通していたという説がある)。
神奈川巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1STziUteC8nhRUqEr7EfmUdYtFPw&usp=sharing
Albums: 神奈川県4/相模国
Favorite (0)
No one has added this photo to his favorite.
Comments (0)
"No comment yet, please write the first comment.
To make comments on artworks, click Login. User registration here.