将軍山城(左京区)先は腰郭?
わずか1週間で次回とはわれながら珍しいです。では明智光秀記事、パート5です<(_ _)>
前回、所感とか書きましたが、95%概略です<(≧ε≦)テヘペロ
まあいくらなんでも、長曾我部家滅亡が、それだけが、土岐一族滅亡につながると思っていたわけではないだろう。
光秀が見ていた信長の動向と長期政権構想を考察。永禄11(1568)年上洛後から義昭、藤孝などの絡みで文のやり取りが始まり、仕える元亀2(1571)年、そして天正10(1582)年の運命の日まで……「時は今」と叛旗を翻すまでに至った動機を。
永禄12(1569)年、初の名物狩り。前年、上洛した信長のもとに三好義継とともに服従した松永久秀。彼が献上したのが名物「九十九髪茄子」。このときから、茶の湯、茶器に大いなる関心をもったと考えられる。
元亀年間、武田信玄(西上作戦)、浅井・朝倉、石山本願寺、伊勢長島一向一揆に囲まれていた。
天正元(1572)年、足利幕府滅亡、浅井・朝倉滅亡。
天正2年、長島一向一揆鎮圧。
天正3年、武田勝頼を敗る。
天正4年、安土城築城。石山本願寺攻め開始。
功績の褒賞に初めて茶器を用いる。安土築城奉行、丹羽長秀に珠光茶碗を与えた。
嫡男 信忠に家督継承。
天正5年、松永久秀の謀反、これを討つ。
天正6年、荒木村重の謀反、一族家臣郎党そしてその妻子を3年かけて追い詰める。
天正7年、丹波丹後征圧。
天正8年、本願寺降伏。
譜代家臣らの首切り実行(佐久間信盛、林秀貞、安藤守就、丹波右近ほか)。古参より実力と、実力至上主義を家臣団の主流とした(光秀、羽柴秀吉、滝川一益ほか)。
次に織田家直系親族の経営。支配地を拡大していくと方面司令官を設置して有力武将を遠方へ配し(柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益ら)、安土・京周辺の所領の多くを3人の息子に分配する。寵臣だった光秀はその信頼ぶりからか、直近に置かれていた。
己一代限りで終わらせぬためだろう、大きな直轄領を持たせ、亡き後の不安を消そうとしていたのではなかろうか。
天正10年、武田氏滅亡。信長にとって残るは上杉・毛利という認識になった。
戦国最強と謳われた武田氏を滅ぼしたこのとき、朝廷内で長らく懸案されていた信長の処遇について(三職推任)、征夷大将軍にすべきと勧修寺晴豊が上申している。
フロイスは書き残している。
「(前略)毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった。(後略)」
信長の思想、政治構想を具体的に示す史料は国内にはまったく残されていない。そんなものが国外に残っているのはおかしいと、この史料、話は信憑性を持たれず重要視されなかった。秀吉の唐入りですら誇大妄想と扱われた。唐入りもまた、秀吉の猿真似ということになる。
だがフロイスの書き残した情報(「日本史」)の多くが史実に沿っていたことから、見直されることとなる。
ときに世界は大航海時代。信長はポルトガルから大型軍船と航海士を手に入れようと考えていたと想像される。
信長はフロイス、後任のオルガンティーノ、そしてヴァリニャーノ。彼らから地球が丸いこと、日本がいかに小さいか、航海・航路、世界史──経済と戦争を聞き知り、“南蛮渡来の異物”諸々を贈られ、ますます世界が広がったはずだ。
フロイスの日本史に秀吉の朝鮮出兵時の発言が記されている。「予は多くの国替えや領地替えを行うであろう。このたびの企てに加わった者には、朝鮮やシナで国土を賞与するであろう」。
戦勝報告を受けたときの秀吉を見たフロイスの感想として、「関白の明白で決定的な意向であり、彼が強く望んでいるのは、彼が恐れており、将来なんらかの支障をもたらすかもしれぬすべての君侯なり高位者を、日本から排除し放逐し、
それを実現した暁には、日本の諸国をほしいままに自らの家臣、友人、その他の己が欲する者に分与することであった」と記している。
国内大名、武将の動揺、驚嘆、恐怖、嫌厭はいかほどのものだったか。その衝撃はフロイス日本史に幾許か書かれている。ではどうして明白な史料が残っていないのか。
信長時代、その思想がまったく知らされていなかったわけはないだろう。秀吉時代、公に伝わった時は上記の通り。謀反を起こす者が多数出るのではないか、書き記すことすら叛旗と捉えられかねない、と思ったのではないだろうか。
なにせ信長のこの構想が、光秀に謀反を起こさせた一因だと秀吉が公式発表していたから。
もう高齢であった。嫡男はまだ幼齢であった。近江・丹波領を預かる寵臣でも、いずれは遠国へ飛ばされるだろう。これは既定路線だった。
叩き上げの光秀に譜代家臣は少なく、苦労して築き上げてきた新領地の家臣団は
地元に残り新領主に仕えると思考された。なにせ攻め取ったのだ、敵も多いまま。弱体化は免れない。
家名、血筋の存続はこの時代とても重要な事柄だった。
天下布武(とは畿内5ヶ国のことだけなのだが)、日本平定まであとわずかと迫っていたこのとき、100年続く戦乱の世がまもなく終わると、それが可能だと信じられた大器 織田信長に付き従い粉骨砕身東奔西走してきた。
そこに「唐入り」である。高齢の己ではなく、若い子らが先に逝ってしまうかもしれない。長曾我部征伐、遠国移封(領地切り取り次第)、唐入り。これが謀反の動機だと、著者明智憲三郎氏は記す。
武田征伐が終わり、中国毛利、四国長曾我部、北陸上杉、九州(大友・島津)、関東(北条・佐竹)、奥羽・蝦夷……。信長の政治構造の歯車は乱れず進むように思われた。
発企してから、謀反を成功させるための時期的・時間的・物理的・場所的最大の成功機会を考えに考えただろう。信長、嫡男・当主の信忠を確実に討つこと。畿内の織田家勢力の掃討。有力武将のことごとくが遠国。大軍は甲信に駐留。短期決戦……。
そこへまさしく、「時は今」が訪れる。
「骰子は振ることにしよう」というガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)の熟慮の末の決断と比較され、「敵は本能寺にあり」は衝動的決断の際の代名詞として用いられます。が。が!
アルバム: 京の都2(南区・伏見区・山科区・左京区)
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2019年5月10日 00:46 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)
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