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簗田寺(町田市)

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Photos: 簗田寺(町田市)

Photos: 簗田寺(町田市) Photos: 小野路城 萬松寺(町田市)

りょうでんじ。



――mixi記事コピペ――2015年12月03日 01:06

15.12.02.
東向山 簗田寺(りょうでんじ)
宗派、曹洞宗
本尊、釈迦如来
中興開基、簗田正勝
中興開山、龍穏寺第二十一世 鐡春嶺大
創建、寛永6(1629)年 ※改称・改宗
簗田半兵衛正勝の法名 簗田寺性山樹見と、正勝室 法名 東向院本叟栄心より山寺号をとったという。
鐡春は万治2(1659)年に入寂している。

※開創「東香堂」――
平安のむかし、平将門の乱(承平天慶の乱)がこの地でも行われたという。将門と対した平貞盛は、両軍の死者をここで荼毘に付し、東香堂を創建したという。
・開基、平貞盛
・創建、承平5(935)年〜天慶3(940)年か。

※再興「東岳寺」――
中興開基、山内上杉6代 憲定
憲定生死、天授元年/永和元年(1375年)〜応永19(1413)年(室町時代初期)

簗田半兵衛正勝――
文禄4(1595)年、徳川家康に仕え以後、3代家光まで出仕。大番を務め400石。
寛永10(1633)年、620石へ加増。
承応元(1652)年没、法名 簗田寺性山樹見。

父は「桶狭間合戦勲功第一」と信長に賞された簗田政綱。通称 簗田出羽守。
政綱は諫言する家臣らと違い、信長の奇襲攻撃に同意した。そして密かに今川義元本陣の裏手へ兵を動かしたという。
三河後風土記、信長記、太閤記いずれにも、いずれかの名で登場している。
論功行賞で3000貫文の知行と沓掛城を与えられている。紹巴富士見道記によると天正年間まで沓掛領主であったようだ。

(wiki→)桶狭間の戦いの功績の内容は不明だが、一説には、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝え、義元の首を挙げた毛利良勝よりもその功績は大きいとして、沓掛城主となったという。しかし、なぜ本陣の場所を簗田が知っていたのか、なぜ功績を讃えられたのか、不明な点が多く、小和田哲男や武田鏡村らの歴史研究者が推測を発表しているが定説はない(詳細は桶狭間の戦いの項を参照)。
また、後世において桶狭間の奇襲作戦を立案し、合戦直前に善照寺砦の軍議において他の諸将を差し置いて作戦続行を主張。立案した作戦が成功したために一番手柄とされたというが、それを証する史料はない。簗田を一番手柄としたことが、信長が情報を重視する表れとする解釈を司馬遼太郎が小説『国盗り物語』にて描いているが、前述の通り歴史学においては司馬の解釈を証明するだけの証拠が発見されていない。(←)

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